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京都御所の西側、蛤御門の向かいに鎮座する護王神社のホームページです。

御由緒と御祭神

御由緒と御祭神

御由緒

 護王神社は京都御所の西側、烏丸通に沿いに鎮座する神社で、平安京の建都に貢献された和気清麻呂公(わけのきよまろこう)をお祀りしています。

 確かな創建年は伝えられていませんが、もとは洛西の高雄山神護寺の境内に清麻呂公の霊社として祀られ、古くから「護法善神」と称されていました。

 江戸時代末の嘉永4年(1851)、孝明天皇は清麻呂公の歴史的功績を讃えて正一位護王大明神の神階神号を授けられ、明治7年(1874)には「護王神社」と改称して別格官幣社に列せられました。

 明治19年(1866)、明治天皇の勅命により、華族中院家邸宅跡地であった京都御所蛤御門(はまぐりごもん)前の現在地に社殿を造営し、神護寺境内からご遷座。後に姉君の和気広虫姫も主祭神として合わせ祀りました。

 その後、崇敬者により境内の霊猪像(狛いのしし)が奉納され、「いのしし神社」とも呼ばれ親しまれています。

御祭神

主祭神
和気清麻呂公命(わけのきよまろこうのみこと)
和気広虫姫命(わけのひろむしひめのみこと)
配 祀
藤原百川公命(ふじわらのももかわこうのみこと)
路豊永卿命(みちのとよながきょうのみこと)
和気清麻呂公命
和気清麻呂公命
和気広虫姫命
和気広虫姫命

御祭神伝記

和気清麻呂公の波乱の生涯

ご誕生

 和気清麻呂公は、天平5年(733)、現在の岡山県和気町でお生まれになり、長じて奈良の都へ上り、朝廷にお仕えしました。

姉君 - 和気広虫姫

 清麻呂公の姉君・和気広虫姫は、早くから宮廷にお仕えし、そのお人柄は「他人の悪口を言うことがない」と天皇からも厚く信頼されていました。天平宝字8年(764)に起きた藤原仲麻呂の乱の折には、乱に連座した375名の死刑者の減刑を天皇にお願いし、死罪を流罪に改められ、乱の影響で身寄りを失った子どもたち83人を養子として養育されるなど、大変慈悲深い方でした。

道鏡事件

 奈良時代末の神護景雲3年(769)、当時法王となり権勢をふるっていた僧・弓削道鏡が、「道鏡を天皇にせよ」という九州・宇佐八幡のご神託があったとして天皇になろうとたくらみます。清麻呂公は称徳天皇に命じられて、そのご神託の真偽を確かめるため宇佐八幡へ赴き、ご神託が偽物であったことを報告。清麻呂公は身を挺して道鏡の野望をくじき、世の中の平安のために活躍されました。しかし、道鏡の怒りを買った清麻呂公は、広虫姫とともに流罪にされてしまいます。

中央への復帰とその後のご活躍

 それから一年が経ち、朝廷では称徳天皇の崩御により道鏡は失脚し、光仁天皇によって清麻呂公と広虫姫は許されて都へ呼び戻されました。その後、清麻呂公は豊前守、摂津大夫を歴任するなど、めざましい活躍をされました。

平安京の造営

 桓武天皇は、都を平城京から長岡京へ遷されましたが、新しい都造りはなかなかはかどりませんでした。そこで清麻呂公は、淀川上流の葛野の地に新たに都を造営することを天皇に進言されました。桓武天皇はこれを聞き入れ、ここに新しい都を造営し、遷都されました。これが以後千年の都となる平安京、現在の京都です。清麻呂公は造宮大夫として、平安建都にも力を尽くされました。

その他の御事績

 清麻呂公は、ほかにも民部省の長官として「民部省例」を整備したり、和気氏の子弟を教育するために、我が国初めての私学「弘文院」の創設に力を入れるなど、晩年まで世のため人のために尽くされました。
 清麻呂公は延暦18年(799)、同年卒去された姉君広虫姫の後を追うように薨去(こうきょ)されましたが、その誠実で清廉潔白な人柄は、多くの人々から慕われ、後世まで語り継がれるところとなりました。